「おネエことば」には「ひっくり返す力」がある
――前回は「女ことば」の成り立ちについて伺いました。
女ことばを研究する中で、類似する概念であるいわゆる「おネエことば」についても研究を進めてるんですけど、これまでに出した本にはきちんと章立てして載せてないんです。当事者の皆さんのためになるような書きかたにしたいので、もう少しきちんと突き詰めたくて。
当事者の皆さんの中でも、「おネエことば」については思ってることが特に大きく分かれるように思います。
ーー「おネエことば」によって培われてきたカルチャーもあるものの、それを強要されたりと、つらい思いをしたというゲイの方の声も耳にします。そういった声を聞いていると、「おネエ」という分類自体どうなんだろうと思うこともあります。
大学進学のために上京して、初めて行った新宿二丁目で「おネエことば」と出会って「これ私の言葉だ」と思ったという人にも、おネエと呼ばれるタレントさんたちのイメージによって偏見が助長され苦しめられたという人にもお話を伺いました。なので、単純にいいものとも悪いものとも言えないというか。
それに、インタビューさせていただいた「おネエことば」話者のかたの多くは「私たちが喋ってるのは女ことばじゃない」っておっしゃりました。本人たちの中では明確に別物なんですね。「私たちは女になりたいんじゃない、女のパロディをしてるんだ」って主張する人がいて、非常に感銘を受けました。
――女のパロディ。
これはとっても重要な観点なんですよね。パロディには力があるんです。本来自分の持ち物とされていないものごとを取り入れて自分を演出することによって、既存の権力関係なんかをひっくり返すような視点が生まれる。
ーードラァグカルチャーと縁深い「キャンプ(※)」の概念ってまさにそうですよね。
※編集部注:過剰に特徴づけ模倣することで皮肉・批評として機能し、ときにそこから生まれる笑いによって既存の価値観を更新する表現様式
そうですね。そういうひっくり返す力を自覚しつつ、それによって苦しい思いをする人がいる可能性にも目を向ける。
それにもう1つ、「おネエことば」がクッションやオブラートの役割を果たして、言いにくいことが伝えやすくなるというのもある。こういう点に居心地のよさを感じて「おネエことば」を使う人もいますよね。
有名なかただと永六輔さんとか、尾木ママとか。柔らかい印象ですよね。きついこと言うときにも通りやすい。
――それに関して質問なんですが、尾木ママを最初に見たときにこう、「これはいいのかな」って思ってしまったんです。いわゆる「おネエ」ではないと公言している尾木さんが「おネエことば」を使うのは、文化の盗用にあたるのでは? と。
言葉の所有権の問題ですよね。当事者のかたの中にも盗用と感じる人はいるかもしれません。「ゲイでもないのに使うな」ってね。ただ、言葉って人間一人ひとりに明確に所属するものじゃないんですよね。
ーーなるほど。
一人ひとりといえば、『クィア・アイ』。先日、『サイゾー』のライター古澤誠一郎さんから取材を受けたときに教えていただいたのですが、Netflixの、一般視聴者のかたをメイクやファッションのスペシャリストのゲイのチームが変身させる番組なんですけど。その「ファブ5」っていうチームの人たちの翻訳が当初全員「おネエことば」で、ものすごく批判が集まったそうなんです。
ファブ5にはフェミニンな振る舞いをする人もいれば、そうでない人もいます。それらを一緒くたに「おネエ」として捉えていた。
でも、こういったことは決して翻訳者一人の責任というわけじゃないんです。上司や取引先からの要請もありますから、一人でコントロールしきれない部分もある。だから難しいところなんですが、この翻訳は批判を受けてのちに改められた。日本も変わってきたなあと感動しましたね。
――結果、5人それぞれ違う言葉使いになりましたね。
そう、一人ひとり違った言葉使いに修正された。これがあるべき形かなと思いますね。ゲイを全員おネエことばで翻訳するのは違いますが、かといって「おネエことばに訳してはいけない」っていうのもまた別の権利を脅かすことになる。
単純に男性でも「僕」の人と「俺」の人がいるし、女性だってそれぞれに違う言葉使いをするわけなので。
「こうあるべき」という規範
そうそう、最近読んだ論文に「ホモノーマティヴィティ」という考えかたが紹介されていて。
――「ヘテロノーマティヴィティ(※)」ではなく、ですか?
※編集部注:異性愛を「普通」とする考えかた。それ以外の性的指向への差別と結びつきやすい。
香港大学のTong King LEEさんの論文で、ホモセクシャルの中にも規範性があるということが指摘されていたんです。ホモセクシャルと言ってもこの場合はゲイの事例なんですが。
Alfian Sa’atというシンガポールの劇作家が書いたKings of Ann Siang Hillという同性愛を描いた作品のシーンを通して言及されていたんだけど。どういうものかというと、ある若いゲイ男性が、ゲイ同士の社交場として暗黙の了解のある公衆浴場を訪れるのね。
――いわゆる発展場ですね。
そこであるおじいさんから話しかけられるんです。他愛のない世間話なんだけれど、それを聞いて若いゲイの彼が「体が目当てなんだろ、そんなつまらない話するな」と返す。
どういうことかというと、この場では肉体の美しさがものをいうので、若い彼は自分が優位に立っていると自覚している。おじいさんは若い男性を求めてここへ来て、自分のご機嫌取りをしてどうにかチャンスを得ようとしているのだと感じたんですね。
だけど実はおじいさんには長く連れ添ったパートナーがいて、養子に迎えた息子も一緒に3人で来ていた。家族でゆっくり温泉に浸かりにきただけってことがわかるんです。
そこでその若いゲイ男性は自分の中にある「ゲイはこうあるべき」という規範意識に気づく。ゲイなら若い男と性行為をしたがって当然、ゲイの世界では若くて美しい男だけがモテて、でもいつか歳をとって、家庭も持てず1人で死んでいくしかないんだ、という固定観念でおじいさんを見ていたんだけど、そういう悲しいナラティブがすべてとは限らない。
――その若いゲイ男性のように、あらゆる属性について知らず知らず規範を内面化している可能性があるということですね。
そうですね。自分の思う「ゲイらしさ」に則った考えかたが染みついていた。ジェンダーというのはそういう社会的に刷り込まれた性のあり方への規範意識を言い当てる言葉です。
ジェンダーは社会的性別、つまり「女らしさ」や「男らしさ」を社会的に作られたものとして、生物学的な性別から切り離す考えかた。
社会によって左右されるものだから、別の社会では別の「女らしさ」や「男らしさ」がある。日本の女らしさとアルゼンチンの女らしさは違うし、明治の日本の女らしさと現代の日本の女らしさも違う。
絶対的なものではないんだ、ということを「ジェンダー」という言葉を発明することによって宣言した、というのが非常に意義深いことだと思います。
第1回はこちら。第1回:ハーマイオニーと女幹部 「女ことば」は男が作る【言語学者・中村桃子】
全3回の第2回であるこちらの記事では「おネエことば」について伺いました。
最後の第3回は、一人称が「僕」の女性や、男性が「僕」と「俺」どちらを選ぶかといった「言葉の選択」について伺います。
1月7日公開予定です。
第3回はこちら。第3回:一人称が「僕」の女の子、「僕」から「俺」に武装する男の子【言語学者・中村桃子】
中村桃子
関東学院大学経営学部経営学科教授
博士(人文科学)。専門領域はことばとジェンダー。
「女ことばと日本語」岩波書店WEBサイトはこちら