長らく文章が書けずにいました。
でもなぜか鬱憤が溜まってどこかで叫びたい、そんな気持ちになったのでまた筆を取りました。きっと孤独だったんだと思います。
最初の脱毛広告への批判記事、文化の理解に関する記事で、読者の皆様の反応に傷が癒される経験をしました。
これは、私のブランク ー空白ー についての話です。
私は履歴書が嫌いです。
自分の履歴書や職務経歴書を書くたびに、多くの不安を背負って戦わなければいけないからです。失敗を重ねるほど、恥が上塗りされていく。例えその失敗が私のせいではなかったとしても、まるで罪人の証かのように、ずっと背中にくっついてくるように感じるのです。
大学時代にはこんなことがありました。
給付型奨学金を申請するときの話です。
そこでは、自分が大学でこのような勉強をしていて、こんな資格を取って、アルバイトと節約をしながら頑張っていることをアピールしました。でも質問されたのは、履歴書に書いていなかった、日本に留学するまでの2年間のブランクの話。
「なぜそこが空いているのか」と聞かれたので、「留学準備のために、アルバイトをしたり、独学で勉強をしていました」と答えました。
しかし「だとしても、この空白はなんだい?証明できないと、あなたは迷子になっていたのと同じだよ」と笑いながら返されました。
もちろん、奨学金は落ちました。
落ちた理由はほかにあったのかもしれないし、別の奨学金も全て落ちたけれど、それよりも私には「迷子」という言葉がショックでした。
あ、わたしは迷子なんだ。迷子だったんだ、と。
わたしなりに頑張って人生を続けようともがいてたあの時間は、人から見たら単なる「迷子」の状態に過ぎなかったのかと思うと、たまらない気持ちになります。
世の中は失敗した人に対して厳しいです。
より正確にいうと、失敗を乗り越えた一部の人のストーリーは魅力的なので「そこまでたどり着けていない状態の人」に厳しいとも言えるでしょう。このように社会に出る前の学生にとても厳しいのに、「就活」ではさらに高い壁に突き当たります。
特に書類上だけの選考だと、私がどのような人生を歩んできて、人間性を持っているかは考慮されません。そんなことより、証明できない空白期間のほうが私という人間を定義してしまいます。それはつまり、「何事も続かない人間」「弱い人間」「リスクのある人間」などというレッテルです。そこで、どうして仕事を辞めざるを得なかったか、どうしてすぐに転職ができなかったのか、そんな話は腫れ物に触るように、「してはいけないもの」として扱われます。
わたしはそれに対し、一生懸命に言い訳を続けなければなりません。
躍起になって、顔を赤くして、自分の正当性について主張するのです。
あるいは、大したことではないかのように取り繕わなければなりません。
その経験に対して、ポジティブでなければなりません。
典型的なパワハラに限らずパワハラと表現できるものも、言葉で表せないぐちゃぐちゃの辛い経験を全て乗り越えて、「今は『正常』です、『健康』です」と、笑顔でアピールしなければなりません。
嘘をついているわけではありません。
実際、わたしは周りにいる人たちのおかげで、今は比較的「元気」で、「健康」で、問題なく「働ける」「人材」になっているのだから。とは言え、そうやって一生懸命に自己PRを済ませると、一気に疲れが来ます。悲しいです。悔しいです。
なぜ自分が今こんなに言い訳を言わなければいけないのかと、悲しい気持ちになって、家に帰って泣くこともしばしばありました。
もちろん会社側はリスクのある人間を取ることはしたくないでしょう。人を採用をすることは多大な資金と労力がかかります。いくら人手不足が叫ばれる世の中でも、ブランクがない候補者がいたら、そちらに傾いてしまうのは当たり前のことだと思います。決して採用する側を一方的に責めたい、批難したいわけではありません。
ただ、何かしらの事情があって「学業や仕事等を辞めなければいけなかった」その個人だけにレッテルを貼って、責任を負わせるのは少しおかしいのではないか、という違和感を唱えたいだけです。
人それぞれ、伝え切れない事情を抱えています。
ときには明かしたくない過去だってある。その事情を無理して公にしても、周りをシーンとさせるか、非難されるか、なかったことのように扱われてきました。
一例に過ぎませんが、例えば私が「パワハラ」を経験して、仕事を早期に辞めたとしましょう。
必ずしもパワハラと定義できるものではないかもしれませんが、その被害は大きく、わたしの自信、人間としての尊厳、やる気、すべてを破壊させるものでした。周りの環境も厳しく、とても安心して次の仕事を見つけられる状態ではありませんでした。
追い詰められた人に、次の選択肢は見えません。とにかく生きるためにもがくだけです。
文字通り、「生きる」ためです。
将来のキャリアや、これまで頑張って手に入れた大学卒業や資格の「メリットが消える」ことを心配している余裕はありませんでした。ただ単に、壊れた心をなんとか掻き集めて、「自分」というものを保たなければいけなかったのです。
それなのに、やっと次に進むために方法を検索しても、出てくるのは「パワハラで空いてしまったブランクはどう説明するか」とか「空白期間はどこまで許される」「そもそも詳しく言わない方が良い」のような内容ばかり。これでは被害者に泣き寝入りをさせてしまいます。なぜならその質問や回答の前提には「辞めた方が不利で良くない」というバイアスがあるからです。
私は、はっきり理由を伝えても良い、と思います。本当に正当な理由があると信じるのなら、それを理解してくれない組織には向いてないと思うからです。お互いにとってミスマッチになるでしょう。
少なくとも、ブランクがあったからといってその個人が「根性が足りない」とか「何事も続かない」「精神的に弱い」人だと思われなかったり、ブランクに関する共通理解が社会全般に浸透していれば、挫けた人でもまた次に進みやすくなると思います。
ブランクに至った出来事を、一種の災難だと考えてみることはできないのでしょうか。
人間は、ここにいたら死ぬかもしれないと思うと逃げます。就労経験も少なく、つらいときにどうすれば良いか分からず、周りに相談できる人もいなかったから、そのときに最善と思える選択をしただけです。個人を責め、責任を負わせたところで何も生まれません。
本当に人手不足なら、責任は個人から社会へシフトしていくべきです。
数字のような目に見えやすい形で女性の管理職や役員を増やす、外国人やLGBTQ+の人を採用するだけでなく、ひとりひとりが働きやすい社会にしていくこと。それが真のダイバーシティだと私は考えています。
人生に空白の期間があった、それは必ずしも悪いことではありません。その期間があったからこそ、自分自身と向き合うことができたという人もいます。勉強や仕事をしながら成長していく喜びもあれば、一歩離れて成長する喜びもある、それだけのこと。それに対して「その人が弱い」というレッテルを貼ってしまうのはあまりにも過酷だと思いませんか。
そもそも「弱い」ことは悪いことでしょうか?
だれかが決めた基準で、人間を「弱い」と判断できるのでしょうか。それも、自己責任論が蔓延する資本主義社会が作り出した一方的な価値観ではないでしょうか。
なにごとも効率化や生産性が重視され、それらを生み出せない人を「生産性のない、弱い人間」だと決めつけるのは、今の社会です。絶対的な概念ではありません。歴史と共に時代は変わり、いま当たり前とされているものも変わるかもしれません。このまま効率化と生産性だけを追い求めたとしても、私たちが迎える未来はAIに代替される未来かもしれません。
確かに同じ環境下でもストレスを受けない人もいれば、ストレスを受けて不調をきたす人もいる。あるいはストレスを受けながらもいろんな要素が相まって我慢してる人もいるかもしれない。今「強い」とされる人がこれからも先ずっと「強いまま」でいられるか、と言ったらそうではないでしょう。「弱い」人が「強くなる」こともあれば、「弱いまま」一生を終えてしまう人もいる。
しかし、人生に何が起こるかわからないのは誰でも同じこと。それなら、弱いままでもいいのではないか、と思うのです。弱いことは「悪」ではないのだから。
こんなことを語っていても、社会がわたしのことをどんな風にみているかは自分が一番良く分かっています。その現実を受け止めた上で、自分にできることをするしかないと思ったので、いま、こうして文章を書いています。
振りかえると、空白の期間は白ではなく、真っ赤な血の色に見えます。
一生懸命戦った勲章のようなもの。えらいね、すごいね、と褒められるべきことだと思います。少なくともわたしは似たような経験をされた人がいれば、手を握って、話を聞きながら、頑張ったね、えらいねと、たくさん頷きたいです。
最後に、Netflixが配信しているハンナ・ギャズビー(Hannah Gadsby)の「ハンナ・ギャズビーのナネット」を紹介します。
「弱い」とはどう言うことか、考えさせられる内容です。
ハンナは公演の後半で、自分の虐待体験を語りながら「力を奪われても人間性は壊されない。回復は人間性の証。他人の力を奪っていいと思ってる連中こそ本当の弱者よ。与えることや壊さないことが本当の強さ」と語っています。
さらに、ハンナは「壊れた自分を立て直した女ほど、強いものはない」とも付け加えています。個人的には女性に限らないと思いますが、真っ赤に染まりながらも今こうして生きているあなたと私に、「よく頑張ったね」と力を送りたいと思います。
ブランクこそが、一生懸命に生きようとした「証」なのです。
それを認められる社会になりますように。