人生で初めてひとりで新宿二丁目のゲイバーに行ったとき私はまだ二十代で、その日は事前に調べてメモアプリに入れておいた「自分の体型でも快く受け入れてくれそうな店リスト」と地図アプリの画面を交互に切り替えながら、ようやく一軒目の店に辿り着いたのだった。小さい店で、窓がないから中の様子は見えない。焦げ茶色で重苦しい木製のドアをおそるおそる開けると、高めの声で「いらっしゃいませ〜、こちらどうぞ〜」とカウンター席に案内された。
私の他にはカウンター客がひとり。ママに「何飲まれます?」と言われ、おしぼりを受け取りながらウーロンハイを注文した。手元の伝票に書き込んでから私の目の前にウーロンハイを置くまでのママの動きが、寸分(すんぶん)の狂いもないロボットのような、一切のムダを排(はい)したスムーズな動きだったのを覚えている。「どうぞ〜」と言いながら一瞬も止まることなく、ロボットはスルスル〜っともうひとりの客の前に進み、「でもそうよねえ」と、おそらく私が来る前にしていた会話の続きを始めた。それまでのあいだその客はこちらを一切見ず終始(しゅうし)|仏頂面(ぶっちょうづら)だったが、会話の再開に機嫌を取り戻したようだった。
私はウーロンハイをすすりながら、することもないのでママと客の会話を聞いていた。二丁目の他のお店の話っぽい内容だったが、仕事の話も混じり始めて、途中から最近行った旅行の話が始まった。一杯で店を出るのは失礼だから、そろそろ話の切れ目を狙ってお代わりを注文しようとしていたのだが、なかなかいいタイミングがない。グラスの氷も口に入れて舐めたり噛んで割ったりして、すっかり小さくなった。小皿に入っていた柿ピーもひとつ残らず食べ切った。そろそろ注文しないとな、なんて思っていたら、突然客が「でも中国人はダメだ」とまあまあ大きめの声で言った。
ヘイト? ってまず思った。でも一応、そういうんじゃなくて例えば「大学で中国語を教えてて、中国からの留学生が単位のために第一言語なのに中国語の講義を履修(りしゅう)しようとしたから、『いやいや中国人はダメだよ』と言った」みたいな話の可能性もある。まあ、だとしても良くない言い方だけれど、ただのヘイトとは別物として扱うべきものだろう。
そんな一抹(いちまつ)の希望は、次に聞こえた「あいつらマナーが無いから」で一瞬にして吹き飛ばされた。ちらっと客の方をうかがうと、ヘラヘラと笑っていた。普通自分の嫌いなもの、嫌なことの話をする時って苦い顔をするものだと思うのだけど、差別主義者はいつでもヘラヘラしている。
さて、私の目下(もっか)の関心は、どうやってママがこの事態に対応するかである。さっき来たばかりの私は中国人かもしれないぞ。どうするママ。
「そうなのよ、中国の人ってほんっと全然日本人と違うから」
全然ダメだった。マジで? 私、中国人かもしれないよ? その可能性全く考えてない感じ?
いや、中国人がいない場だって、中国人ヘイトはダメだ。当事者がいなくたって、当事者の家族や友人がいる可能性もあるわけだし。それに、もし本当にその場の誰も傷つかなかったとしても、やっぱりそういう発言をすることは聞いてる人に悪い影響を与える。何となく「そうかもなあ」なんて思っちゃう人を増やすかもしれない。でも、まあこういう小さい店で、気心知れた常連さんばかりの店だったら、状況によっては目をつぶるという判断をする経営者もいるだろうとは思う。
でもさ、私、さっき来たばっかり。リスク高すぎない?
私がそんなふうにあれこれ考えてる数メートル先で、ママと客は次から次へと中国人の悪口を楽しそうに言い合っている。
地獄である。
新宿二丁目や当事者コミュニティと呼ばれるものが断絶された世界ではなく、いかにこの社会の一部であるかを、この日私は初めて実感した。この頃すでに在特会(ざいとくかい)(在日特権を許さない市民の会)が活躍しており、ネット上にもネトウヨがたくさんいた。最近ではクルド人を対象にした偏見やデマ、排除論が猛威(もうい)を振るっているが、当時は在日コリアンやその他の外国人および外国ルーツのある人々への明確に悪意に満ちた言葉が「普通のインターネットの風景」として定着し始めた時期だった。
新宿二丁目にいる人だって、普段は会社に通っていたり親戚(しんせき)付き合いしてたり趣味のサークルをやってたりする。当事者がよく言う「ノンケ生活」ってやつである。その「ノンケ生活」の中には当然、ネット内外で差別的言説に触れることも含まれている。だからゲイバーで中国人の悪口を聞いたって驚くべきことではないのかもしれない。ただ、当時私の身の回りにはジェンダー研究をしている人や性的マイノリティの社会運動に携わっているような人が多かったので、頭ではわかっていても、なんとなく「クィアな空間はあらゆる人にとってのセーフスペースであることを目指されている」という思い込みがあったのだ。
思いっきり中国人の悪口を聞かされながら、私は、もう失礼でもなんでもいいやと思って立ち上がり「お会計お願いします」とぶっきらぼうに言った。あまりに不機嫌そうに言ったから、もしかしたら私が中国人で、二人の会話に怒って帰ろうとしていると思われたかもしれない。少し身の危険を感じたが、私が一番ドアに近い。無事にここを出れさえすれば、もう二度と来ないのだから、どう思われたっていい。
「あらら、はいはい」と言ってママがカウンター内の私の伝票を手に取り金額を書き込む。下の数センチを切り取って私に金額を示したママからは、さっきまでの流れるような、「何もかも慣れてます」というようなロボット風の動きが消えていた。ママは、私が不快感を持ったことに動揺していたのだろうか。
実際には差別的なことを思っているわけではなかったり、多少思っていても強くそれを主張したいだなんて思っていないような人が、しかし時折(ときおり)「日本人同士の会話のネタ」として差別的な発言をする、という現象も、この時代から一気に一般社会のコミュニケーションの形式として定着したように思う。その時は客にもママにも怒りしか感じていなかったけれど、今思えば、ママにとって外国人差別は、客とのコミュニケーションに使いやすい便利なネタだったのかもしれない。だからと言って差別的な会話をすることが正当化されるわけじゃないけれど。平坦な調子で「ごちそうさまでした」と告げ店を出る私を見送りながら、ママは何を思っただろうか。
私の背中でドアが閉まる。私は想像する。あのスルスル〜っとした動きで、おそらく何十年もそうしてきたように無駄のない動きで、「でもそうよねえ」と客の前に戻ったママを。でも、私の会計の時に少し焦ったような様子を見せたママが、本当のママなんじゃないの? って思ってしまうのは、都合が良すぎるかな。
世の中で流行(はや)っている言説は、飲食に限らず美容院なども含め接客業で働く者にとって非常に便利な会話のネタだ。中国人の悪口もそのひとつだし、在日コリアンの悪口、生活保護受給者の悪口、そして最近ではクルド人の悪口が、言い方は悪いが、とっても便利なネタなのだ。何も知らなくても、何も調べなくても、「最近〇〇人やばいっすね」と言っておけば充分である。デマでも何でも、詳しい話は求められていない。万が一にでも話が具体的になりそうになったら「よくわかんないけど、やばいっすよね」で大丈夫だ。そうやって差別的言説が増幅してゆく。強い悪意を持つわけではない人のあいだにも、伝播(でんぱ)してゆく。
そろそろもっと違うものが流行ってくれないだろうか。「トランプさんやばいよね」「参政党やばくないっすか」はちょっとだけ流行ったと言えるけど、ごくごく一過性(いっかせい)のものだった。中国人や在日コリアンや生活保護受給者やクルド人の悪口みたいに、もっと何ヶ月も何年も使い続けられるような、しかしまともなネタが流行ってくれないだろうか。
ゲイバーにも中国人は来る。中国人以外も来る。外国人をターゲット層に設定していなくても、自然にやってくる。検索でいくらだって店を探せるのだから当然だ。そんな当たり前のことを、なぜ想定できないのだろう。日本語の習熟度(しゅうじゅくど)が高い人とか、日本で育った人なんかだったら、気づかないうちに自分の店に来て、楽しく飲んで帰った人もいるかもしれない。なんなら、常連の中にだっているかもしれない。
別にゲイバーだから他の差別にも反対すべきだと言いたいわけではない。それはダブルスタンダード(属性等を根拠に、一方には求めないことをもう一方には求めること。二重基準とも言う。)になってしまう。それに、そもそもレズビアンバーだってストレート(異性愛の)バーだってミックスバーだって、どこだって差別がまかり通ってはいけないのだ。
でもやはり思ってしまう。二丁目とか堂山とかのいわゆる「ゲイタウン」や「クィアタウン」の中で働いている人には、どうか他の差別にも反対してほしい、と。
クィアな者にとって「ゲイタウン」とか「クィアタウン」は、時に唯一の救いを求めてやってくる場所だったりする。地元で苦しい思いをして、家出同然でやってくる若者もいたりする。昼間の生活で抑圧されているぶん、唯一息のつける場所として二丁目に通っている人もいる。そうやってやってきた人が、ゲイとかトランスとかレズビアンとかバイとかクィアってこと以外の自分の属性や境遇(きょうぐう)について差別的な言葉を浴びせられてしまったら、じゃあもう、どこに行ったら息がつけるんですか。
もちろんノンケのシスジェンダーの人が二丁目に来た時だって中国人の悪口とか言っちゃダメなんだけど、それにも増して、私は個人的に、ダブルマイノリティの人に行き場を失わせることが本当にダメだと思うし、本当にやめてほしいと思っている。
今度9月24日水曜の夜に、新宿二丁目の NOISIE LOUNGE《ノイジーラウンジ》 というイベントで齋藤みほさんと対談をする予定だ。内容はざっくりと「二丁目文化とコミュニティ」について。
みほさんは新宿二丁目でアルバイト中心の学生生活を送ったという。逆に私には、二丁目で遊んだ経験とか、コミュニティ内で社会運動に携わった経験が乏しい。
しかし実は私は、ここ一年くらい——知り合いの店に顔を出す程度ではあるが——二丁目を訪れる頻度が上がった。群馬から埼玉に引っ越したからだ。かつて中国人の悪口を聞かせられた二丁目。戻ってみると、案外いろんな人たちがいるなあと感じる。当時怒って店を出た私はそのまま二丁目文化のドアからも出てしまったようなものだけれど、改めて訪れたこの街で周りを見渡すと、「この人たちが少しずつ積み重ねてきたものがここにあるんだなあ」という感慨(かんがい)がある。
長年二丁目文化を内側から見てきたみほさんの景色は、どんなものだろう。きっと私の見てきた/見ている景色とは全然違うはずだ。
打ち合わせのチャットではいろんな論点が出てきた。ミソジニー、バイ差別、ネトウヨ化、ジェンダー規範(きはん)、「クィア」というアイデンティティ……。結構ひんぱんに耳にする論点ではあるけれど、だからって実際に二丁目が良くなったという話はあまり聞かない。今回のイベントでは「わかる」「そうだよね」「そこ嫌だよね」と盛り上がるだけでなく、具体的にどうやったら変えていけるか、どう変えていきたいかを含めてお話しできたらいいなと思っている。せっかく会場が二丁目なんだしね。
というわけで、もしご興味ある人がいたら、ぜひ9月24日水曜の夜、NOISIE LOUNGE にいらしてください。トークイベント前後の時間も私はいるので、おしゃべりしましょう。
私は音声日本語、音声英語、日英のスマホ筆談、日本手話ができます。手話は初学者なのでご面倒かけるかもしれません。
場所:
AiSOTOPE LOUNGE ※バー部分のみ(北側に入口があります)
営業時間:
19時〜23時(この時間ずっと私はいます)
トークイベント:
20時30分〜(終了時間未定。2時間以内に終わる見込み)
参加費:
入場料なし・ワンドリンク制(ノンアルコールあり)
料金:
最初のドリンクは1,000円・2杯目以降はメニュー表の通り
バリアフリー情報:
折り畳み式のスロープが用意できますので、事前に私でも齋藤さんでもいいのでご連絡ください。 なおトイレは広めの従業員用トイレが使えますが、60ミリの段差があり、手すりも無いそうなので、それでは厳しいという方は近隣のコンビニの利用をご検討ください。(ファミリーマート新宿御苑駅西店は22時までトイレ利用OKとのことです)。
情報保障:
UDトークを簡易的にですが準備していきます。当日会場でQRコードを読み込んでください。リアルタイム修正のボランティアを募集中です(私から一杯めのドリンクをおごらせていただきます)。
注意点:
喫煙可能店ですので20歳未満の方は入店できません。また、タバコが苦手でどうしても入店が厳しいという方は、UDトークのQRコードあるいはURLを個別に送らせていただきます(シェアはお控えください)。
当日お会いできるのを楽しみにしています。