“筆者は「女性」から逃げたくて「ノンバイナリー」と自称しているようだが、「ノンバイナリー」を名乗っただけで「女性」から降りられるわけがない。”
以前とあるWEBメディアへ寄稿した記事に、こんな文言を添えてシェアツイートされたことがある。見つけた瞬間、ぐへえ、と喉の奥から変な声が出た。該当ツイートのアカウントを静かにブロックする。
この手の意味不明な謎理論「論破」風のコメントをぶつけられるのは、実は初めてではない。クィアとして発信を始める以前、ライターとして独立するずっと前から、noteなどで書くたびに、浴びせられてきた。この言説は、ノンバイナリーの存在をなかったことにしたい性別二元論信者たちのお決まりなのだろう。
「女性から逃げる」、「女性から降りる」。
──この表現にひそむ悪臭を、ぼくは知っている。ミソジニーだ。「女性」という存在を侮蔑するまなざしが、ぼくたち出生時「女性」に割り振られたノンバイナリーに向けられる。こういう謎理論で論破した気になって悦に入っているひとは、そもそも女性蔑視的な思想を抱いている。
“「女性」は「男性」より劣っていて、当人も属していたくないと思うほどに下級的な生き物だ。だから「女性」じゃないと主張するために、「ノンバイナリー」という語を用いているのだろう。” ……あのひとたちの言葉を翻訳すると、こんな感じだろうか。
当人も属していたくない、という部分だけはまあ、ある側面ではなるほどそれなりに的を射ている。人生の半分以上「女性」のフリをして生きてきたぼくだから、想像もつく。
でもそれは女性たちが「女性」というジェンダー・アイデンティティを憎んでいる、というわけではない。彼女らは単に、女性に課せられる性役割を憎んでいるだけなのだ。その延長線上にアイデンティティを疎む気持ちも生まれることだってあるだろうが、だからといってそれが当人の性自認を揺るがすわけではない。そしてその上で、「女性」に割り振られた全員が全員、必ずしも「女性」というジェンダー・アイデンティティを持つわけではないというだけのこと。
とはいえぼくも自身のセクシュアリティについて確信が持てなかった時期、それがミソジニーに起因するものなのか、はたまた本当にぼくは「女性ではない」のか、ずいぶんと悩んだ。前回の記事で書いた通り、ぼくの家系には儒教に基づくミソジニーが蔓延している。親族から押し付けられる「女性」としてのジェンダー・ロールに辟易していたが、よもやそれを内面化してしまったのではないか。ああはなるまいと嫌悪していた思想が、いつのまにかこの身の奥底にまで巣食ってしまったのではないか。「劣った存在」「男性の従属物」として扱われることへの激しい嫌悪感から、「女性」というカテゴリへの所属に抵抗を感じているだけなのではないか。
だれにも言えなかった煩悶を吹き飛ばしてくれたのは、高校時代の同級生だった。その子はジャニーズのとあるグループの大ファンで、推しメンのみならずグループのバックにつくジャニーズJr.の子たちまで把握していた。ある日その子が不意に「チカゼって、ジャニーズJr.にいそうだよね。このグループのバックで踊ってそう」と言い出したのだ。
※2023年4月カウアン・オカモトさんによって告発されたジャニー喜多川氏の性加害問題については、この時点ではまだ把握していなかった。しかしその後、元所属タレントらへ取材を重ねこの問題を報道した『週刊文春』が、喜多川氏により名誉毀損で提訴されていたこと・2004年東京高裁が「性加害は真実である」と認定していたことを知る。ここで明言しておくが、ぼくはオカモトさんら被害者に連帯する。なおオカモトさんらが「児童虐待防止法改正」を求める署名を募っているので、そのオンラインページを最後に貼っておく。
ぼくの通っていた中高一貫校は、定まった制服がなかった。シャツやブラウスにカーディガン、スカートやスラックスみたいな「一応きちんとしてる服」は、式典のときに着るくらい。ネクタイやリボンの着用も義務付けられておらず、平時はスウェットにデニムだったりワンピースだったり、だいたいのみんなが各々好きな服装で通学していた。
1年半でお嬢様女子校を退学したぼくは、髪を短く切り、マツキヨで売っているブリーチ材で髪の色素をとことん抜き、ダボダボで体型の目立たないメンズ服を愛用していた。ぼくが好んでいたのは古着だったということも、メンズ服に手が出しやすい要因のひとつだったように思う。というのも古着屋って、ファッションビルみたくメンズとレディースがきっぱり分かれていない。もちろん分かれている店もあるけれど、あえてメンズコーナーを物色する女性(のように見えるひと)も、レディース服を試着する男性(のように見えるひと)もふつうにいて、だれもそのひとらをジロジロ見たりはしない。というか自分の買い物に集中しているひとが大半な気がする。
このような特殊な条件の揃った環境下で思春期を過ごすことができていたため、トランスジェンダーあるあるの「セクシュアリティから来る制服への嫌悪」に悩まされることはほぼなかった。よく男の子に間違えられていたし、同級生たちからも「ボーイッシュな子」として認識されていた気がする。そんな中でかけられた「ジャニーズJr.にいそう」という言葉は、ぼくのジェンダー・アイデンティティの確信へ大きな影響を与えた。
嬉しい、と素直に思った。そして気づく。「そうか、キラキラしたあの男の子たちのようだと言われて嬉しいということは、つまりぼくは本当に女性じゃないんだ」と。あの一言がなければ、自らの性自認を肯定するのにもっと多くの時間を要しただろう。facebookが流行っていたこの時期、すでにXジェンダーという言葉は知っていた。「なんとなくこれに近い気がする」と思って検索をかけ続けていると、高校卒業前後くらいに掲示板で「ノンバイナリー」という語に出会った。そして大学でジェンダー論を専攻したときに「ノンバイナリー」についてきちんと学んだ。その過程で、自分のセクシュアリティを言語化したときにもっとも近いのは「ノンバイナリー」なんだろうな、と納得していった。
もしも自らのことをどうにも「女性」と思えぬ違和感が、「女性嫌い」から来るものだったらどうしようと常に不安だった。仲良しの女友だち、よく遊ぶ女の子のグループのメンバー、これまで恋をしてきた/付き合ってきた女性たち、その全員をぼくは心のどこかで見下していたのかもしれない。もしや自分はとんでもない女性差別主義者なのだろうかと、かなり長い間ひっそりと思い悩んでいた。だからそうじゃないとわかって、胸を撫で下ろした。ぼくはちゃんと彼女ら全員を、心から尊敬し、愛していたのだ。ぼくはミソジニストなんかじゃなく、れっきとしたフェミニストだ。その自信は、自己肯定感にも繋がった気がする。
一昨年家庭裁判所に申し立てをして、女性的な名前からニュートラルな名前に改名した。元々チカコみたいな、一発で「女性」と(現代日本社会においては)見做される名だったのだけど、性別がわからないそれこそ「チカゼ」みたいな名前にしたことで、ストレスから解放された。そして昨年6月タイに飛び、念願叶って胸オペを済ませた。ちなみにいわゆる「胸オペ」で主流な男性的平坦な胸を目指す「乳腺切除術」ではなく、あえてうっすらと“あるようでない”くらいに整える「乳房縮小術」を選択したのだが、自分らしい身体を取り戻せた気がして安堵している。
わからなくていい。理解できなくていい。ただ、ぼくたちは確実に存在する。毎朝起きてごはんを食べ、愛猫のトイレをチェックし、顔を洗い、歯を磨き、労働をする──今まさに、こうしてぼくはキーボードを叩いている。洗濯をし、食洗機のスイッチを入れ、シャワーを浴びて布団に潜り込む。そういうなんの変哲もない毎日を、繰り返し営んでいる。それ以上でもそれ以下でもない。
あなたがどう思おうが、事実としてぼくたちは生きている。
生まれたとき女性に割り振られたノンバイナリーや男性を、「女性から逃げたいだけ」と鼻で嗤うひとたちよ。
出生時の性とジェンダー・アイデンティティが一致しないぼくたち自身に問題があると思っているようだが、それは誤りだ。傲慢で横柄なその思想こそが、ノンバイナリーやトランス男性のみならず、女性たちの首をも締め付けている。それこそがあなたの持つ、腐敗したミソジニーなのだ。個人に問題の要因をむりやり探して押し付けるのは、もうそろそろおしまいにすべきだろう。
問題は、あなたの中の、ミソジニーだ。
排斥すべきはあなたの中のミソジニーであり、あなたはそこからけっして、目を逸らしてはいけない。「女性から逃げたいだけ」などという頓珍漢な言説で「出生時に“女性“と割り当てられたクィア」の存在を否定しても、あなたのプライドや意地を守り通せるわけがない。
ノンバイナリーは、「女性(男性)から降りたい」ためにそう名乗っているわけじゃない。ミソジニーやミサンドリーを内包しているノンバイナリー当事者もいるだろうが、それゆえに「ノンバイナリーに『なった』」わけじゃない。
勝手な偏見と思い込みで、ぼくたちを定義しないでくれ。
カウアン・オカモトさんらによる「児童虐待防止法改正」を求める署名はこちらです。