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ARTICLES日韓露ミックスのぼくが、「在日コリアン」という呼称を好まない理由

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机に広げっぱなしだった転入先の中学校に提出する書類。
そこに記入されたぼくの「日本名」を見て親父が激昂したのを、今もよく覚えている。もう15年も前なのに、怒りで震えて真っ赤に染まっていく般若の顔を、ありありと思い出すことができる。

「おまえ、恥ずかしくないんか。この名前で、こんなレベルの低い学校に通うことになって、おまえは民族の誇りを捨てる気か」

書類を引っつかんでぼくに投げつけるが、しかし2〜3枚しかなかったそれらははらはらとフローリングに落ちるだけだった。

“知らねえよ、民族の誇りなんて。”

そう胸中で毒づきながら、ヒステリーを起こした親父の投げた書類を拾い、丁寧にしわを伸ばす。日本による植民地支配、その末の創氏改名。ぼくたちの「日本名」は、非常に屈辱的な歴史の中で強制的にあてがわれたものだ。その「日本名」を自ら名乗ることは、すなわち民族の誇りを捨てることと同義である。

親父の──上の世代の言い分はわかる。踏み躙られた尊厳の痛みを、軽んじているわけではない。当時中学生だったぼくは、自分の「日本名」が何に由来するのか、すでに本で知っていた。でもそれと等しく、ぼくは彼らの主張する「民族の誇り」がわからない。

自らのルーツを説明するとき、ぼくはいつも「日韓露のミックスです」と答える。必要があれば「元在日コリアン4世で、帰化済みです」と付け加えるが、こちらはあまり積極的には使わない。使いたくないのだ。ぼくは「在日コリアン」という呼称を好まないし、自らに適当とも思えない。

断っておくけれど、「在日コリアン」を憎んでいるわけでも、自らのルーツを嫌悪しているわけでもない。30年間この日本社会で受け続けてきた人種差別を内面化しているゆえの偏見が自らの価値観に混ざり込んでないとは言い切れないが、すくなくとも今は韓国にルーツが在ることを誇ってさえいる。正しくは「誇ろうとしている」だが。この国はそう簡単にぼくらにルーツを誇らせてはくれないので。

では、なぜか。その理由は、在日コリアン社会特有の忌まわしき風潮にある。生活の基盤をこちらに移してしまったぼくたちの祖先は、朝鮮半島に帰ろうにも帰ることができなかった。だから彼らは、自然と身を寄せ合うようにしてコミュニティを形成した。同じ境遇の者同士「同胞」で支え合い、辛うじて血縁者と呼べるレベルの親族ともまるできょうだいのような距離感で付き合い、年功序列や男尊女卑思想を「儒教」にすり替えて尊び、祖国を「ウリナラ」と呼んで恋しがる。

そしてその価値観を、そのまま2世以降の人間にも継承させようと躍起になる。
“死に物狂いで生き抜いた自分たちを誇れ、差別に負けるな、日本人に屈するな。”
”「日本名」を使うやつは、帰化をするやつは、恥知らずだ。”
こんな具合に。

ぼくはまさに、彼らの言うところの「恥知らず」である。国籍が原因でいじめに遭い、それまで通っていたお嬢様学校よりもはるかに偏差値の低い学校へ移るハメになり、挙句いじめをおそれて転校先では「日本名」を使用することに決めた。だけど、「民族の誇り」って? 

喋ることさえできない朝鮮語、足を踏み入れたことのない本籍地。自分とたしかに繋がりのある朝鮮半島は、しかしながら「祖国」とは到底思えぬ土地である。ぼくを「恥知らず」と断ずる彼らの気持ちは、わからなくはない。苦汁をなめた彼らにとって存在自体が屈辱的な「日本名」を、わざわざ自ら名乗る人間を軽蔑することも。
でも、共感はしない。できないのだ。

「民族の誇り」を押し付けられるたび、窒息しそうだった。だいたい、なんでぼくは、今もなお差別の蔓延るこの社会で、それが濃縮された「学校」という場において、ルーツをオープンにして生きねばならないのだろう。それがどれほどの負担か、親父も想像はつくはずなのに。なぜぼくは、ぼく自身で、オープンにするかクローズドにするかさえ決められないのだろう。その権利すら、剥奪されているのだろう。

漠然と感じていた憤懣を言語化できたのは、自分がセクシュアルマイノリティであるとはっきり自覚した成人後のことだった。ノンバイナリーを自認するぼくは、大学で社会学──主にジェンダー論を専攻していたのだが、そこで知った概念がある。クローゼット、そしてアウティング。セクシュアリティをオープンにして生きるか否かは、自分で決めていいこと。他者のセクシュアリティを、了承を得ずに第三者に伝えてはいけないこと。

これ、なんで在日には当てはまらないんだろう。ジェンダー論基礎の講義を受けた帰り道、埼京線内で下唇を噛んだ。クィアと同じく、在日コリアンだってマイノリティだ。それも被差別の、ひどいヘイトに晒されるような。親が勝手に子のセクシュアリティを周囲に吹聴することは最低な行為だと、今ではもう周知されている。でも、在日コリアンは昔から、当たり前のようにそれをやってきた。

本名を強制し、オープンで生きるべし。あるいは、日本名を名乗り、クローゼットで生きるべし。それを決めるのはすなわち親であり、物心ついたあとも子に決定権はない。
よく考えたらこれって、おもっくそアウティングじゃねえか。
長いこと親父に、一族に、「在日コリアン」にぼく個人の尊厳を踏み躙られていたことを知り、手のひらに爪が食い込み血が滲むまでこぶしを握り締めた。

他にもおかしいと思うことは、いくつもあった。

正月や盆、父の実家に帰省するたび、到着した途端ひっくり返ってビールを仰ぐ男たちと、一息つくまもなく即座にエプロンを装着して奴隷のように給仕に徹する女たち。同世代の男児がチャンバラごっこに興じる中、ぼくにだけ──ぼくの代は「女の子」はぼくしか生まれなかった──かけられる「女の子なんだからお手伝いをしなさい」という叱責。

休み明け、クラスメイトが話す「昨日お父さんと喧嘩しちゃってさ」という親子喧嘩のエピソード。
「だから今、お父さんのこと無視してるんだよね。冷戦状態」と笑い話のひとつのように語る彼女が、彼女の家が、不思議で不思議で仕方なかった。「父親と喧嘩」ができるほどに口答えが許されている家庭が、ぼくにはまったく想像がつかなかった。

ナチュラルに組み込まれた男尊女卑。
「あなたは女の子だから、大学なんて行く必要ない」と吐き捨てる祖母。「在日コリアンがこの日本社会で就職なんかできっこない、だから子どもをなんとしてでも士業か医者に」という強迫観念から、“子を殴ってでも”勉強を強いる祖父や親父や伯父たち──先祖代々と受け継がれる教育虐待。それらにちょっとでも異を唱えようものなら、すぐさま「年配の人間に対してその態度はなんだ」と怒鳴りつけられ、トーンポリシングで抑圧されてきた。

自分の意思で自分の人生の舵取りをする、そんな当たり前の権利すら、年配の人間が言う正論っぽいもので一蹴されてしまう。個人の生き方を真っ向から否定するものでも、儒教の名の下に正当化されてしまう。だからぼくは、あの空気が蔓延している父の実家に、自らの一族に、「在日コリアン」に、所属していたくないと思ってしまう。「在日コリアン」と一括りにされるたび、あんなひとたちと一緒にしないでくれと喚きたくなってしまう。

ただ、それでも。四条や川崎など各地で在日コリアンへのヘイトスピーチが行われるたび、はらわたは煮え繰り返る。
昨年ウトロ地区で、そして民団枚岡支部でヘイトクライムが発生したときは、ショックのあまり数週間寝込んだ。なんの意地だか知らねえが関東大震災朝鮮人虐殺慰霊式典に際して頑なに追悼文を送らない小池都知事にも、胃が焦げるような憤りを覚える。「韓国人は喧嘩っぱやい」「韓国人にはツリ目の一重しかいない」「韓国人は色が白い」……こんな感じのマイクロアグレッションに晒されるたび、発言した当人の口にガムテープを貼っつけてやりたくなる。そういう当事者意識は、たしかにこの胸にあるのだ。

日本に生まれ日本で育ち、3カ国にルーツを持つ韓国籍で生まれたぼくは、自らを「在日コリアン」とは思えない。そこに所属を見出せない。しかし帰化したからといって、自らを「日本人」とも思えない。これまでの人生でさんざっぱら、弾かれてきたから。
いまさら仲間に入れてもらおうとも思わないし、そんなもん、こっちから願い下げだ。
だからといってルーツのひとつであるロシアにもまた、帰属意識はない。ロシア名だけを持たぬ所以か、もっともつながりを感じられない。

ぼくは、「何人」でもない。そう結論づけたのは、ほんの数年前のこと。

自分が「何人」かは、自分で決めることではないか。どの名前を名乗り、どの国に住み、どの国籍を選択するか。それらを決めるのは当人で、他者に断ずる権利はない。セクシュアリティと同じように。ぼくが「何人でもない」と言うのならば、もうそれがすべてなのだ。

築き上げてきた歴史、守り抜いてきた尊厳。
それらはたしかに敬意を払うべきだけど、だったら、あなたたちが死ぬ思いで繋いできた命の末端だって尊重してくれよ。ぼくたち2世以降も、あなたたちと等しく個人なんだよ。自分だけの思想と主義と主張を持った、ひとりの独立した人間なんだよ。あなたたちの生き方を軽視しない。だから、ぼくたち2世以降の生き方だって安易になじらないでくれよ。

ぼくはフェミニストだ。
男尊女卑にも、ジェンダーロールの押し付けにも、断固抗議する。そして、すべての人間の人権はすべからく尊重されるべきだから、教育虐待をやむなしとする風潮にも異議を唱える。また、アイデンティティは当人が決めるものだから、ルーツをクローズドにしたいと考える人間は「日本名」──そこにどのような屈辱的な歴史があろうとも、それとは別にして──を使用する権利があると主張する。年功序列が絶対だとも、年食ってる人間が偉いとも、ぼくは思わない。
儒教を、拒絶する。
先人たちの価値観は、受け継がない。
ぼくにはその自由がある。

その上で、あらゆる差別に反対する。自らのルーツのひとつである韓国、「在日コリアン」に対して唾を吐かれたときは、どんな手口を使ってでも憤る。たとえばこんなふうに、文章で。

ぼくは、「民族の誇り」を、継承しない。
そして、だれの尊厳も踏みつけない。踏みつけてしまったときは謝るし、踏みつけられてるひとを目撃したら力の限り共に怒ろう。だからだれも、ぼくを踏みつけないでくれ。
ぼくを断じられるのは、この世で唯一、ぼくだけなのだ。

ぼくは、「何人」でもない。

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92年生まれ、東京都出身。もの書き。エッセイスト・ライター。修士(学術)、ジェンダー論専攻。ノンバイナリー(they/them)/日韓露ミックス。教育虐待サバイバー。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。 Twitter:https://twitter.com/ckz46 note:https://note.com/chikaze/

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