ジェンダーがテーマのこの連載。第二回目はエッセイマンガの名作のひとつと私が思っている「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」です!
このマンガは「レズ風俗」そのものよりも「孤独」のほうが本質のテーマ。
孤独という暗くなりがちなテーマが絵のかわいさで読みやすくなっているところもいいです。
性交渉ができるかできないかで悩む本質は「人とどうかかわるか」ということなんですよね。
自分の人生を振り返ると…始めて彼氏ができたのは18歳。付き合ったり別れたりしてきたことを考えると「人並みの経験」があるようにも思えるのですが、永田カビさんの「人とどう付き合ったらいいのかわからない」という20代の苦しみに、共感できるくらいは「うまくいかなかった」という自認があります。
誰かと付き合えたからといって、苦しくなかったり辛く無かったりするわけじゃないのが人生の恐ろしいところであります。
この本で描かれている当初、カビさんは社会とうまくコミットできていません。それを「レズ風俗」に行く、というところから少しずつ自分の「やりたいこと」と向かい合い自分を取り戻していく過程が描かれています。
彼女の性自認については結構あいまいで。カビさんが「同性愛者である」とはっきり書かれているわけではないんですよね。ただ、男性から「女性」として扱われることに嫌悪感があると書かれている。
それゆえにこのマンガは「レズ風俗」というインパクトの強いワードがあるけれども、女性ならではの葛藤や悩みというものは薄め。このカビさんの孤独や性との葛藤については、男性でも同じような悩みがあるだろうなと思いました。
私は彼女の孤独に共感する…といいつつ、私の20代はフリーランスのイラストレーター・グラフィックデザイナーとして自立しており、どちらかといえば結構うまくいっているほうだったと思います。
短大を卒業して20歳からひとり暮らしをし、仕事をしていて食いっぱぐれることはなかった。なので、仕事の面においては周りからは「恵まれてる」「うまくやってる」と思われることもありました。
が…実際「20代に戻りたいか」と言われたら絶対お断りの「一番の暗黒期」でした。
家の中にずっと1人でいて生活して1人で仕事して、人間関係がうまく行かなくても「弱音を吐くと他人に迷惑だから」と鏡と話してました…。
「私が弱音を吐いたら迷惑だろう」と思って鏡の自分に弱音を吐くというのは、誰かと深く関わりたいけど誰のことも信用していないってことなんですよね。
「人に優しくしてもらたいが、人に優しくしてもらえるだけの価値が自分にはない」という強烈な思い込みがありました。
とはいえ、じゃあそれが「なぜか」と言われれば私にもわからない。
常に孤独であるという認識があるのに、誰か深くは関わるのが下手…。そして永田カビさんの描写に自分の20代の記憶が呼び覚まされてしまうのです。
現在の私は家族がいて、仕事もあって「孤独ではない」状態です。
いつも「20代の私に40代の私は孤独じゃないから安心してくれと伝えたい」と思うのですが、それと同時に「60代、70代の私はどうなっているだろう」と思うのです。
どこかのコミュニティに所属したり、誰かのために何かをしていると、孤独から遠ざかれると感じます。カビさんはバイトに存在意義を見出そうとしたり、正社員になろうとします。
でも彼女が欲しかったのは親からの評価でした。
私は子育てを始めて、赤ちゃんや幼児は私の存在がなくては困るわけですから「自分の存在価値」について悩むことは減りました。
子どもは全身全霊で親の存在に依存しています。精神も自立しておらず、とくに母親の影響を大きく受けている。子どもにとってそれは大事な期間だと思うのですが、親側にとってもある一種の安心感を与えてくれるもので、孤独からの解放という点から言うと、快楽に近いものを与えてくれます。
子育ての苦しみの中に「自分がなくなる」みたいなものがありますが、それは同時に「自分だけではない」という大きな安心感であり、ここに依存してしまう人がいる…ということも理解できます。
ですが、子どもは大人になります。
「子どものための存在」ということだけに自分の存在価値を見出そうとすると、子どもが大人になってからも親が子どもに依存することになります。実際に40歳を過ぎても親が「誰のおかげで大人になったと思ってるの」と感謝を強要してくる…というような話を友人から聞くと、感謝どころか子どもにとって悩みの種でしかないと恐ろしくなります。
子どもに自分の存在意義の全てを依存しても、賞味期限は20年程度。人生の全てをそこに振り分けるのは危険過ぎません?
子どもにとって「親が全て」の状態なんて、長くて15年くらい。生活をサポートするのがプラス5〜7年くらい…。
25歳を過ぎても親が子に依存しても、子が親に依存していても健全な状態ではないと思います。
なぜなら、多くの場合親が先に死ぬからです。先に死ぬ存在に子どもの人生の価値の全てをかけさせるのは、親としては無責任じゃないかと私は思います。
なので、子どもが「大人」になったら、親とはある程度の距離をとって自分の人生を歩んでほしいし、私は自分自身の孤独を埋めるために子どもの人生を消費したくない。
私は大人になっても子どもに深く関わり続けようとするのは親のエゴだと思うし、成人しても「親の評価を得たい」と子どもに思わせてしまっていいんだろうかと思うのです。親子が密着しているのは親にとってのある種「桃源郷」のような状態。カビさんのご両親はひとり暮らしに反対したり、その桃源郷を続けようとしているように私には見えました。
カビさんは自分の体験をマンガにして、それが評価されることによってカビさんにとっての理想の社会との関わり方を得ることになります。評価と自信を得るわけですが、それもハッピーエンドというよりは一つの過程に過ぎない。
彼女のエッセイの続巻を見て行くと、その後もうまくいったり失敗したりの繰り返しが描かれています。
結局、誰しも理想の桃源郷にいられる期間には限りがある、ということなんだと思います。
でも「生きててよかった」「これでよかった」と思える桃源郷にいられるように日々生きて行くしかないんですよね。私はパートナーとは信頼関係を日々築いているし。きっと子どもが独立しても仲良く生活できると思うのですが、何もしなくてもこのまま理想の桃源郷にずっといられるとは思っていません。
問題があれば解決をし、何か一つに依存したり逃避したりもせずに自分の機嫌を取り続け、他者に思いやりを持ち、友達を作り、常にバランスを取っていかないとダメなんだなあ…ということなんですよね。
こいうことを考えないでも日々暮らせる人もいるのかもしれないけど、私はせめて桃源郷が終わる日と、その後をどう生き抜くかを考えたい。それが孤独に抗う方法なんじゃないかなと思っています。